発憤せよ。(佐藤一斎『言志四録』録5)

発憤せよ。(佐藤一斎『言志四録』録5)

「憤の一字は、これ進学の機関なり。舜何人ぞや、われ何人ぞやとは、まさにこれ憤なり。」

これは佐藤一斎『言志四録』の言志録第五条に書かれた言葉である。

訳文は以下の通り。

「発憤するの一字は、学問に進むための最も必要な道具である。

かの顔淵が「舜(中国の古伝説上の聖人であり五帝の一人)も自分も同じ人間ではないか」といったことは、まさに憤ということである。」

(訳文は講談社学術文庫の川上正光氏のものを引用しています)

どういう意味か?

意訳をすると、顔淵が偉大なる舜という王を見て、「彼も同じ人間じゃないか!自分もやろうと思えばやれる!やってやろう!」と強く発憤して、勉強に精を出したということである。

佐藤一斎は何事かを成すにはこの「発憤」が大事だと言っているのだ。

実は起業も同じ。最初はこの体の底からみなぎってくる「発憤」のエネルギーが大事である。この発憤のエネルギーはもしかしたら「怒り」にも近いのかもしれない。時に「見返してやろう」という思いがあるかもしれない。

例えば、私の知人には「リストラされたのでその会社を見返したい」「好きな女性にフラれたので成功して見返したい」などの見返したい思いで「発憤」し、独立起業のエネルギーに転換した人がいる。

また、幼少期に貧乏で苦い思いをしたので、起業してお金持になりたいと発憤する人も多い。

理由はともかく、この発憤エネルギーが大きければ大きいほど、起業初期の「キャズム」を超えやすい。

起業初期の離陸は多大なエネルギーを要する。自然の摂理から考えれば当然だ。産みの苦しみはどの生物にもあるだろう。生まれた後、立派に成長して大人になるためには多大なエネルギーを要する。事業やビジネスも同様である。

佐藤一斎はだからこそ「憤」の一字が重要であると言っている。

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